絵画の活動では毎回、モチーフに悩まされますが、夏がカブト虫やザリガニなど、複雑な形態をとるモチーフだったので今回は、単純な形態をもつぶどうにしました。しかし球体が連なるだけで、また、殆ど単色に見えるので、ともすれば紫の塊になってしまうのではないかなあと、少し心配がありました。
先々週は、一番初めの幼小コピカの日に用事があり、子ども達が描きあげる頃に教室に入ったのですが、目に飛び込んできた子ども達の絵は、いつも以上の驚きでした。私の心配など全く無意味。なんと瑞々しいぶどう!本当にひとりひとり皆、違う!と子ども達の表現の豊かさに脱帽です。殆どの子が二房以上のぶどうを描き、色混ぜした紫や青や赤のみんな違う色、また形も大小様々でしたので、一瞬、何種類かのぶどうを組み合わせてモチーフにしたのかなあと思ってモチーフ台を見ると、布の上に一房のぶどうがコロンとおいてあるだけ。「え~っ、これ見てこの絵が描けてるの~っ!!」と更に驚きでした。

モチーフは子どもの興味、子どもが描きたいという気持ちになるようなものを選ぶことは、必要ですが、気をつかいすぎたり、子どもにおもねいたりしなくても、信じていれば子どもはやっぱり描きあげてくれるなと思いました。
しかし今回は、特別とも思えないかぼちゃやぶどうのモチーフを見て、子ども達が「描きたい!」という気持ちになったのには、ひとつの理由があります。それは、この時の活動で読んだ「ミッフィーとフェルメールさん」という絵本です。ミッフィーが美術館にフェルメールの絵を見に行くという設定で、フェルメールの絵がミッフィーにより紹介されています。アトリエの子達だからかもしれませんが、子ども達の“くいつき”は、想像以上で、フェルメールを見入っている子ども達の目に本物を感じとっているのがわかりました。
実際この絵本を見て「フェルメール展に連れてって!」とお母さんにお願いして見に行った子もいます。絵本にでてきた絵と同じ正真証明のフェルメールの絵を見た時の感動はどんなものであったでしょうね。きっとその子の心に新しい感性の扉が開いたことと思います。幼い時にそんな経験をさせてもらえて本当に幸せですね。
その絵本の中には、イーゼルに向かい絵を描いているフェルメール自身がモデルであると予測されている「絵画芸術」とう絵があり、そのページで有末先生が「すごいね。346年前のフェルメールさんも皆と同じように、イーゼルで絵を描いているね。」と声をかけます。そして、次のページでミッフィーが、「あたしもえをかきたくなっちゃった」と続きます。最後に有末先生が、「みんなも描きたい?」って聞くと子ども達は、「描きたいー!」と表情を輝かせて、少し誇りを持った風情で一人一人イーゼルへ向かっていきました。
有末先生の読み聞かせは、作家への畏敬の念と、登場人物への愛情、それからもちろん子ども達への愛情を感じます。いつも、聞き手である子ども達の感性に呼びかけるように語っています。心地よく響く有末先生の読み聞かせは、子ども達の耳に有末先生の言葉として聞こえ、有末先生が語ってくれたお話しとして伝わります。だからこそ、一人一人の子どもの表情を見ながら、心を込めて読み聞かせを行っているのだと思います。同じ仕事でも、それがわかってやっている人とそうでない人がするのでは、子ども達へ伝わるものはまるで違ったものになってゆくでしょうね。
作家が本物の作品を生み出す時、どれ程の想いと愛情で絵を描き、言葉を選び、工夫を重ね、考え抜き、心を込めてつくっているのかも、それを感じて作品を見るのとそうでないのとは、違ってきます。私にとって、ミッフィーや14ひきシリーズがそうでした。作家さんのエッセイを読んで思いを知ると、更にその作品の魅力が分かり、子ども達への読み聞かせが変わってきました。“学ぶ”ことが感性の扉をより広げ、また知性への語りかけをはじめ、それが子ども達をはじめ、色んな人に伝わり、互いに成長してゆけるようなアトリエであり続けたいです。
2012.10.(3) アトリエ講師 星野 由香