積木同様、アトリエの主軸となる絵画の活動は、感動させられない日はありません。同じ画材、同じ環境で行うことから、子ども達の成長や心の動きが感じられます。
大人しい子や繊細すぎると感じる子が、絵画の時には堂々としていて、飛び出してくるような大胆な絵を描くと「ああ、この子は大丈夫だ。芯はしっかりしている」と思えたり、この頃心が荒れてるなあ、自信を失っているなあと心配していた子が自分だけの空間に無我夢中になり、そのことが自信を取り戻すきっかけになったことを描き終えた時の表情から感じ取れたりすることがあります。
幼児クラスでは、デッサンしていても、色を塗ると消えてしまって絵具の固まりになることもありますが、心配することはありません。その絵には子供のなりのストーリーがあったり、色混ぜを楽しんでいる間に泥んこのような画面になってしまったり、それぞれの無我夢中が描かれてあります。そして、アトリエでは上手に描くことよりも、今、その子が向かっている世界を大切にしたいと考えています。

アトリエで使用しているリキテックスは、水彩絵具のような伸びがありませんから、パレットから筆に絵具をつけて塗れるのは一回で、3cm四方くらい。どれ程の手数であの画面を塗りきったのかを考えながら見るとどの子もものすごく頑張っていることが分かりますから、一度、子供の絵をよーく見てあげて下さい。しかも立って描いていますから、常に腕は上がったまま。彼らの殆どが最後には、“腕がいたい”って言っているのがなぜなのかが分かります(^^)
ある年中さんの女の子は、画面を塗りきるまで1時間半いっぱいかかり、ずっと無言で塗り続け、出来上がった瞬間、お母さんの顔を見て、抱きついて泣き出しました。こんな小さな身体で、そんなにそんなに頑張っていたんだと、その姿を見ていた有末先生も私も胸が熱くなりました。彼女がこの時間に得たものは、絵が上手くなることでも、評価されることでもありません。涙が出るほどに頑張った。しかも自分からその世界と向きあい、やり遂げた、そのことそのものです。私たちの人生においてそこまでの気持ちになったことが何回あるでしょうか。その1回を彼女はわずか5歳にして体験している。体験そのものの経緯が記憶に残らなくても、この涙は彼女のこれからの人生に大きな意味を持つと感じました。それはまるで人間の最終的に求める高尚な欲求、自己実現の姿を見ているようでした。
そんな子ども達の姿を見るたびに、私自身が彼らのように、自分の信じる道に無我夢中になれたら、もっと何かができるはず、彼らに比べたら私はまだまだだと感じさせられます。
これから皆さんにご紹介しようと思っている、宮崎駿さんの50冊の児童文学について書かれた著書『本への扉』の中でも「私は、生活するためにアニメーションを作っているのではない、アニメーションを作るために生活している」と言う言葉がありました。
私はこれはアトリエ的な考え方と言うだけでなく、今の若者たちが目指している生き方の形ではないかと感じます。ブータン国王の訪日があってから、よく幸福度のことが言われるようになり、日本人の幸福度は先進国の中ではもとより、食べるのにも困っている貧しい国よりも下位であることが分かりました。専門家の話では「やりたい事をやって生きている人が少ない」ということや「自分が社会の役に立っている実感が持てない」ということが理由のように言われています。
最近の社会学では、誰かの為に生きよう、社会の役に立とう、と生きている人の方が、そうでない人に比べて幸福度が高いという結果も出ています。和久共育は、今の社会に求められている教育であることを更に実感しました。先ほどの宮崎駿さんの著書の中で、“生まれてきてよかったんだ”“生きていいんだ、というふうなことを、子ども達にエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけ”とおっしゃっていました。自らのアニメーションも同じ思いではないかと想像します。和久先生もアトリエの教育を「子ども達が、人間が幸せに生きるためにある」と話しています。とても大きなテーマですが、子ども達の隣にいる大人は、突き詰めるところは同じであり、私もその大きさに向かって歩みを進めて行かなければならないと、今、深く感じています。
2012.2.(1) アトリエ講師 星野 由香