<球で遊ぶ>“多様と統一を体感する”
4月2回目は風船で遊んでから、粘土に絵具を混ぜてつくった色粘土で球体をつくりました。自分でふくらませた風船ロケット遊びも、風船100個をシーツに入れて遊んだトランポリン遊びも(布の触感とたまに割れるのがいい(笑))送風機で風船を浮かべる遊びも、ジャンボ風船遊びもみんなものすごく楽しんでいました。球は人間に最も活用されている形です。中に空気が入っている素材である風船も色々な遊び方ができます。ひとつの物で色んなバリエーションで遊べる体験を子ども時代にたくさん体験させてあげてください。
<幼児期の体験の重要性> 無からは創造できない
風船遊びの後は粘土に好きな色の絵の具を混ぜて色粘土をつくったのですが、親子コピカ2年目の子ども達や、親子から来ている幼児クラスの子達が粘土をもみ込むのがものすごく上手でびっくりしました。それだけでも幼いころからの体験はこんなにも違うということを思いました。小学生でもはじめてする子は表面だけに絵具がついて、なかなか、“もみ込む”という動作が出来ません。現代の子ども達の遊び環境が手先をつかうことが極端に減ってきているのも理由の一つだと思いますが、普通に暮らしていたら圧倒的に体験の量も種類も情報量も少なくなってきてしまいます。子ども達が外界に働きかけて自己を表現するためには素材と環境が必要です。無から有を創造することはできません。そこに童具の存在理由があります。その為の童具環境であり、アトリエ環境であることを子ども達の姿に思います。
※YouTubeやスマホ視聴で子ども達の情報量は増えていると思われがちですが、実は視覚からの情報だけになってしまい、自分からは何の体験もしていないので五感の情報がありませんから、逆に情報量は実際の体験に比べて圧倒的に減っているそうです。またいつでも見られるものに対して人間は覚えようとしないので記憶に残っている情報量も少ないと言われています。子どもの人生がスマホに奪われてしまうのはもったいないですね。
<脳のタイプがある> 体験だけでは克服できないこともある・苦手を克服させるより得意を伸ばす
以前にご紹介したことがありますが、ケーキを切れない子ども達という本が今も話題になり、コグトレというのがはやっています。気の利いたように見える算数プリントのようなものなのですが、アトリエでやっていることを紙にしたような感じです。例えばピンボードのような点があって、それをつないで図形を書くというようなものです。アトリエはそういうことを訓練ではなく遊びの中ですでに乳幼児期から形の秩序に従って、立体でやってきていることから思うと、否定する訳ではありませんが、こういう表面的な教育を見る度に、和久共育ではすでに深く語られていることであることを思います。私が子ども達を見てきた体験からでは、実際に体験を繰り返してきたとしても苦手なことが得意になることは殆どありません。前記と矛盾するようですがアトリエで色んな体験をしていてもケーキの切れない子はいます。それは色んな子がいるから当たり前なんです。苦手なことを克服させるために躍起になると劣等感をうえつけてしまい、得意なことまでできなくなってしまう子ども達も見てきました。ただ克服できるケースもあります。得意なこと、夢中になれること、好きなことをどんどん伸ばしてあげること、得意なことから苦手なことをアプローチすることです。それと好きなことをするためには苦手なことを克服しなければできないという状況が生まれた時です。専門的なことはわかりませんが、その時の子ども達はモチベーションが違うので脳の使い方が変わったり、普段つかっていないところが動きだしているのかなあと感じたりしています。何はともあれ訓練で子どもをどうにかしようとするよりも、その子のそのままを受け入れる大人の姿勢こそが先であり、その大人の姿勢が結果的に解決策を見出します。従来の平均的な人間を量産する画一的な教育や大人がつくりあげる子どもではなく、ケーキが切れないからこそ他の人と違う発想が出来る、そこを大切にする教育こそが今、世界に求められていることなのかもしれません。
<数・図形について>人間の教育より ―幼児期の人間―
フレーベルは、図形は、形成や発達の手段として幼児や少年にとって、さらに人間にとって、極めて重要であると人間の教育において言っています。子ども達は物を描くことや図形で表現すること、また観察することで、同種の対象は常に同数の結びつき方をすることを認識します。例えば二本の腕、ふたつの目、虫の6本の脚というように。ひとつの同一の対象の度重なる反復から生きた数の認識が始まり、計数能力が発達し形成されていきます。また、2歳半くらいから同じものを延々と並べたり、同じ色を集めたりするようになります。その時に養育者や指導者のちょっとした言葉かけで、子どもの中で数に生命がふき込まれます。例えばはじめは「赤がひとつ、赤がもうひとつ、赤がまたひとつ、赤がいっぱい」というように数量がひとつずつ一様に加わることによって増加していく様子を伝えます。そして次は「赤がひとつ、赤が二つ・・・」と数詞を加え、最後は数詞だけで数えてみます。先へ先へと飛び越えたりせず、自然の発育のそった自然の順序に従っての純粋な数の考察、純粋な数の直観したときの幼児は、自らの新しい能力を喜びに満ちて数の世界を受け入れることと思います。フレーベルは「幼児は相当の期間は、実際に数えられた、ないし数えられながらの対象の直観なしには、数詞を言わせられるなどしてはいけない。そんなことをすれば、幼児には、数詞が死んだ響きとなり、空虚な、無意味なものになってしまう。」ということを強調しています。
<幼児期は人生の土台をつくる>人間の教育
「適正な指導と真正な養育と誠実な保護とに恵まれた幼児は、幼児期の最後の時期に、すなわち幼年時代を抜け出て少年時代にはいるさいに、内的生活や外的生活の面で、どれほどの豊富さと、どれほどの充実ぶりと、どれほどの溌剌さとを、われわれに示すであろうか。」―のちの大人の思考や感覚や知識や能力の対象で、その最先端の球根を、幼年時代までにのばしていないようなものがどこにあろうか。将来の教授や将来の教訓の対象で、すでに幼児期から芽生えていないものがどこにあろうか。<岩波書店 人間の教育 抜粋>
前記されている適正な指導と真正な養育と誠実な保護に恵まれた子は、アトリエの子達を見ていても生き生きと輝いた目をしています。子どもはとくに目が多くを語ります。もっともっと豊かに生じてきたはずの発達をもぎとってしまわないように、子ども達の目を輝かせてあげたいですね。卒業生たちを見る限りですが、両親の愛情をしっかり受けて、環境が整えていれば、先へ先へと急がせたり、不自然な勉強をさせなくても大丈夫です。子ども時代を私達も子どもとともに謳歌しましょう!!
2022年5月①アトリエ講師 星野由香
4月2回目は風船で遊んでから、粘土に絵具を混ぜてつくった色粘土で球体をつくりました。自分でふくらませた風船ロケット遊びも、風船100個をシーツに入れて遊んだトランポリン遊びも(布の触感とたまに割れるのがいい(笑))送風機で風船を浮かべる遊びも、ジャンボ風船遊びもみんなものすごく楽しんでいました。球は人間に最も活用されている形です。中に空気が入っている素材である風船も色々な遊び方ができます。ひとつの物で色んなバリエーションで遊べる体験を子ども時代にたくさん体験させてあげてください。
<幼児期の体験の重要性> 無からは創造できない
風船遊びの後は粘土に好きな色の絵の具を混ぜて色粘土をつくったのですが、親子コピカ2年目の子ども達や、親子から来ている幼児クラスの子達が粘土をもみ込むのがものすごく上手でびっくりしました。それだけでも幼いころからの体験はこんなにも違うということを思いました。小学生でもはじめてする子は表面だけに絵具がついて、なかなか、“もみ込む”という動作が出来ません。現代の子ども達の遊び環境が手先をつかうことが極端に減ってきているのも理由の一つだと思いますが、普通に暮らしていたら圧倒的に体験の量も種類も情報量も少なくなってきてしまいます。子ども達が外界に働きかけて自己を表現するためには素材と環境が必要です。無から有を創造することはできません。そこに童具の存在理由があります。その為の童具環境であり、アトリエ環境であることを子ども達の姿に思います。
※YouTubeやスマホ視聴で子ども達の情報量は増えていると思われがちですが、実は視覚からの情報だけになってしまい、自分からは何の体験もしていないので五感の情報がありませんから、逆に情報量は実際の体験に比べて圧倒的に減っているそうです。またいつでも見られるものに対して人間は覚えようとしないので記憶に残っている情報量も少ないと言われています。子どもの人生がスマホに奪われてしまうのはもったいないですね。
<脳のタイプがある> 体験だけでは克服できないこともある・苦手を克服させるより得意を伸ばす
以前にご紹介したことがありますが、ケーキを切れない子ども達という本が今も話題になり、コグトレというのがはやっています。気の利いたように見える算数プリントのようなものなのですが、アトリエでやっていることを紙にしたような感じです。例えばピンボードのような点があって、それをつないで図形を書くというようなものです。アトリエはそういうことを訓練ではなく遊びの中ですでに乳幼児期から形の秩序に従って、立体でやってきていることから思うと、否定する訳ではありませんが、こういう表面的な教育を見る度に、和久共育ではすでに深く語られていることであることを思います。私が子ども達を見てきた体験からでは、実際に体験を繰り返してきたとしても苦手なことが得意になることは殆どありません。前記と矛盾するようですがアトリエで色んな体験をしていてもケーキの切れない子はいます。それは色んな子がいるから当たり前なんです。苦手なことを克服させるために躍起になると劣等感をうえつけてしまい、得意なことまでできなくなってしまう子ども達も見てきました。ただ克服できるケースもあります。得意なこと、夢中になれること、好きなことをどんどん伸ばしてあげること、得意なことから苦手なことをアプローチすることです。それと好きなことをするためには苦手なことを克服しなければできないという状況が生まれた時です。専門的なことはわかりませんが、その時の子ども達はモチベーションが違うので脳の使い方が変わったり、普段つかっていないところが動きだしているのかなあと感じたりしています。何はともあれ訓練で子どもをどうにかしようとするよりも、その子のそのままを受け入れる大人の姿勢こそが先であり、その大人の姿勢が結果的に解決策を見出します。従来の平均的な人間を量産する画一的な教育や大人がつくりあげる子どもではなく、ケーキが切れないからこそ他の人と違う発想が出来る、そこを大切にする教育こそが今、世界に求められていることなのかもしれません。
<数・図形について>人間の教育より ―幼児期の人間―
フレーベルは、図形は、形成や発達の手段として幼児や少年にとって、さらに人間にとって、極めて重要であると人間の教育において言っています。子ども達は物を描くことや図形で表現すること、また観察することで、同種の対象は常に同数の結びつき方をすることを認識します。例えば二本の腕、ふたつの目、虫の6本の脚というように。ひとつの同一の対象の度重なる反復から生きた数の認識が始まり、計数能力が発達し形成されていきます。また、2歳半くらいから同じものを延々と並べたり、同じ色を集めたりするようになります。その時に養育者や指導者のちょっとした言葉かけで、子どもの中で数に生命がふき込まれます。例えばはじめは「赤がひとつ、赤がもうひとつ、赤がまたひとつ、赤がいっぱい」というように数量がひとつずつ一様に加わることによって増加していく様子を伝えます。そして次は「赤がひとつ、赤が二つ・・・」と数詞を加え、最後は数詞だけで数えてみます。先へ先へと飛び越えたりせず、自然の発育のそった自然の順序に従っての純粋な数の考察、純粋な数の直観したときの幼児は、自らの新しい能力を喜びに満ちて数の世界を受け入れることと思います。フレーベルは「幼児は相当の期間は、実際に数えられた、ないし数えられながらの対象の直観なしには、数詞を言わせられるなどしてはいけない。そんなことをすれば、幼児には、数詞が死んだ響きとなり、空虚な、無意味なものになってしまう。」ということを強調しています。
<幼児期は人生の土台をつくる>人間の教育
「適正な指導と真正な養育と誠実な保護とに恵まれた幼児は、幼児期の最後の時期に、すなわち幼年時代を抜け出て少年時代にはいるさいに、内的生活や外的生活の面で、どれほどの豊富さと、どれほどの充実ぶりと、どれほどの溌剌さとを、われわれに示すであろうか。」―のちの大人の思考や感覚や知識や能力の対象で、その最先端の球根を、幼年時代までにのばしていないようなものがどこにあろうか。将来の教授や将来の教訓の対象で、すでに幼児期から芽生えていないものがどこにあろうか。<岩波書店 人間の教育 抜粋>
前記されている適正な指導と真正な養育と誠実な保護に恵まれた子は、アトリエの子達を見ていても生き生きと輝いた目をしています。子どもはとくに目が多くを語ります。もっともっと豊かに生じてきたはずの発達をもぎとってしまわないように、子ども達の目を輝かせてあげたいですね。卒業生たちを見る限りですが、両親の愛情をしっかり受けて、環境が整えていれば、先へ先へと急がせたり、不自然な勉強をさせなくても大丈夫です。子ども時代を私達も子どもとともに謳歌しましょう!!
2022年5月①アトリエ講師 星野由香